いつも問われるのは、このタイトル中の一点です。
皆さんは、「日本人はどのように森をつくってきたのか」という、コンラッド・タットマン氏の本を読まれたことがありますか?
そもそも、こんな本を外国人の日本近代史研究家に書いてもらわなければならない程、日本の森林研究者は、「親・林野庁」と「嫌・林野庁」に分かれ、不毛な対立に時間を使い過ぎてきてしまっていたのが、2003年までの日本の森林・林業界でした。
第2次世界対戦では、アメリカに家を焼かれました。無事帰ってきた戦士達の家も建てなければならず、全土でスギ・ヒノキ・カラマツの大規模造林がなされましたが、途中で材木が足りなくなり、“ロン(レーガン大統領)・ヤス(中曽根康弘総理)協定”で木材の輸入が自由化されてしまったことが、せっかく全土に植えた人工木がその後、全く間伐されず、林業そのものが衰退してしまった原因でした。
製材会社たちは、外材を使って製材し、家を造る大工さんや会社もそれを使うという“社会システム”ができ上がってしまったからです。
一方で、列島の奥山にある太い天然林材には高い値がついて、林野庁はそれを伐り出すために「大規模林道」を造り続けたのですが、それが貴重な自然を破壊していることと、いつの間にか「大規模林道」づくりそのものが“公共事業”の目的になってしまったことが、白神山地や知床の原生林では問題となっていったのでした。それ故に研究者たちが二手に分かれて論争したのです。
その日本の森林研究者をあきれて、タットマンさんは筆を執ることを決意されたのではなかったかと私は思っています。
しかし、2003年に林野庁・木材課の一人の課長が、「俺たちは、いったい何をやっているんだ。“ミレニアム(20世紀から21世紀の変貌期)の改革”と称して、全国の営林署を統廃合してしまい、これからは中央に残った6千人で「管理局」としてやってゆくと決めてしまったが、先祖や先輩たちが戦後に植えた人工林が育ち、使い頃を迎えているじゃないか。これを使える予算を財務省にもらおう」と、2003年には「新流通・加工システム」、2004年には「新生産システム」も申請し、満額ゲットできたのです。
そこで私たちも、「日本に健全な森をつくり直す委員会」をつくり、「日本の森は、まず“グランドデザイン“をつくり直すところから始めよう」という第一次提言書を2008年につくって、それが農水省に採用され、「森林・林業再生プラン」が2009年12月にできました。
これらの経緯は、当「委員会」がつくったいくつかの本に書いていますのでお読み下さい。
また、林野庁で2003年から何が起こったかは、当時の木材課長の山田寿夫さんの「21世紀を森林(もり)の時代に」(「北海道新聞社」刊)や、私の「“林業再生”最後の挑戦」(「農文協」刊)を読んでいただけると御理解いただけるでしょう。
21世紀は、世界中で森や木材が今よりも大切にされる時代となるといわれています。森林(もり)を大切にしながら「林業」を主産業とできる日本をどうつくってゆくか。これが私たち日本人に“地球”から与えられた大きなテーマでしょう。
子どもも大人も、森林(もり)を大切に想い、森の木を使った家に棲むことに憧れる。そんな日本となることへむけて御一緒に行動してゆきましょう。