昨年(2019年)秋の台風19号は、信濃川、阿武隈川、荒川、多摩川など多くの大河川で氾濫を引き起こした。ケンモリ委員会の天野事務局長に「何をいまさら」と言われるのは覚悟で書くが、筆者はそこで改めて、「ダムでは洪水は防げない」という事実を痛感したのである。
世間では、筆者と全く逆のことを考えた人も多かったようだ。「群馬県の八ッ場(やんば)ダムのおかげで、利根川沿いでは浸水が起きなかった」という話が、ネットで広まったくらいなので。確かに八ッ場ダムは、たまたま完成直後で空に近い状態だったため、一気に8千万トン近い水を貯めることができた。だがそれは利根川水系の多数の支流の一つである吾妻川の上流での話で、利根川の本流や、その他の多くの大支流から流れ込む圧倒的に量の多い水が食い止められたわけではない。下流で浸水被害の出なかったのは、栃木・群馬・埼玉の県境にある渡良瀬遊水地以下の、利根川中・下流の平野部にある4つの遊水地が、計2億5千万トンと八ッ場ダムの3倍以上の水を引き受けたからだ。
そもそも、八ッ場ダムを一気に満水にしたこと自体も問題なのだ。ダムの新設時には本当は、ゆっくり湛水し、次いで放水して、湛水時の莫大な水圧の影響が堰堤やダム湖の岩盤にどう出るか確認せねばならない。筆者の会ったあるゼネコンの土木の専門家は、今回の八ッ場ダムの運用を「あってはならない危ないこと」と語っていた。なぜそんな危険なことをしたのか。ここで水を貯めずにいて下流で浸水が起きたなら、「あれだけ反対を押し切って建設したのに役立たず」と言われると恐れたのだろう。
加えて、それ以上に問題なのは、たまたま八ッ場ダム以外の既存の大ダムは機能したのかということだ。武蔵小杉での浸水が話題となった多摩川の場合、本流に八ッ場ダムの2倍の貯水量を持つ小河内ダムがある。だがその小河内ダムの、台風来襲前の貯水量は88%、通過後の14日朝の貯水量は93%で、新たに貯められたのは8百万トンだけだった。「もっと事前に放水しておき、台風来襲時には満水にせよ」と結果論を言われても、放水で下流の水位は上がるので、それがかえって浸水被害を増やすことにもなりかねない。実際小河内ダムは今回、台風来襲の数十時間前から臨時の放水を行ったのだが、それが本当に下流の洪水防止に役立ったのか、逆に水位を上げる結果となったのか、怪しいところである。
以上をまとめよう。空のダムを満水にするのでもない限り、ダムに洪水を防ぐ力はない。だが、ダムを空にしておいて豪雨の際に満水にすることは、土木の常識に照らして危険であり、全国どのダムでもやっていない。つまり一度出来上がったダムは(今後の八ッ場ダム含め)、洪水防止には役立たないのである。 洪水が増えているのは、温暖化で集中豪雨が増えたからだけではない。バブル崩壊以降放置されてきた人工林が、荒廃して保水力を失っていることが大きな原因だ。さらに言えば、支流が本流に合流する地点でバックウォーター現象が頻発しているのは、そうした地点にあって遊水地機能を果たしてきた湿田地帯を、過去半世紀以上にわたり乱開発してしまった結果である。この秋に浸水被害が起きた場所は、武蔵小杉含め戦前には都市開発されていなかった、本来は遊水地であるべき場所なのだ。
折も折、日本の人口は半減に向かっている。1975年に1001万人いた0~4歳の乳幼児は、2019年には492万人(外国籍含む)まで減っており、従って40年後には40歳台の日本在住者は半減し、その子供の世代もさらに今より減ってしまう計算だ。これを奇貨としようではないか。7200万人から1億2800万人まで人口の急増した戦後に、無理に開発しなければならなかった遊水地を、ゆっくりゆっくり再び農地に戻していくことで、日本の平野部の安全性は格段に向上する。
さらにいえば人口減少は、ロボティックスやAIの普及により供給力が維持されがちな中、経済の全般でさらなる供給過剰を招き、企業の採算性を減少させる(拙著「デフレの正体」参照)。この際、オフィスに座ってAIで代替可能な事務作業に漫然と従事している都会の若者に、森の中で体と頭をフル回転させて働く機会を提供するチャンスだ。土木工事だけに投じられてきた税金を、森の再生に従事する者の人件費に回すことで、本当にマンパワーの必要な分野に若者を誘導することができる。
上流での山林の手入れと中・下流での遊水地機能の整備回復には、数十年、いや100年以上かかるかもしれない。だが今から地ならしを始めなければ、100年後にも何も進展していないだろう。「国土強靭化」と称し、役に立たぬものに無駄金を使う狂人のような振る舞いをしているようでは、子孫に申し訳が立たない。人口が半減し、ダムの老朽化も全国各地で深刻な問題となるであろう今世紀中盤に向けて、治水哲学の根本を転換させるときである。
藻谷浩介(モタニコウスケ)
NPO法人日本に健全な森を取り戻す委員会理事。㈱日本総合研究所調査部主席研究員。平成合併前の3,200市町村、海外113ヶ国を自費で訪問し、地域特性を多面的に把握。地域振興に関し、精力的に研究・著作・講演を行っている。著書にデフレの正体、里山資本主義(以上KADOKAWA)、完本・しなやかな日本列島のつくりかた、観光立国の正体(以上、新潮社) など。近著に、世界まちかど地政学Next(文藝春秋)。